心というものは粘土のようなものなのだなあと思ったりした

毎日食べると腸にいいらしい

目の前にA君がいるとする。


その時、人は本人を直接見てA君だと認識するが
そのほかにもその像を心の中に投影してA君像を作り上げる。


例えばA君と離れ離れになったとしても
A君の思い出は心の中で再生されるし、
A君にこういうことをしたらどんなリアクションをするだろうかとかは
心の中で表現される。


つまりA君という人間がいたとき
それを認識するとともに心の中に独立した別のA君ができあがるのである。


その心の中のA君は現実のA君ではあるが
しかし同一のA君ではない。


分かりやすく説明すると、
ここにもう一人、A君の彼女のBさんというのがいるとしよう。


二人は仲むつまじく愛し合った。
しかし破局を迎えてしまう。


そうすると二人は途端に憎しみあった。
もうあんな人の顔も見たくはないわっ、てなことになってしまう。


けれどBさんの心の中には
優しかったころのA君の像がそのまま存在している。


心の中のA君の像というのは
Bさんの心の一部を使って作り出したもので
現実のA君とは違う。


心の中には楽しかった頃のA君の思い出とかが入っているし、
その中のA君はBさんを裏切ったりしていない。
実際に裏切ったのは現実のA君である。


心が粘土のようなものに思えたのは
こういうことを考えたからである。



よく恋愛をしていて
破局してしまうと途端に全てが憎悪に変わってしまう人とかがいる。


あれはイクナイ。


だってあんたいままできちんと愛し合ってきたんだろう?
その気持ちは嘘だったのか?
嘘偽りなのか?
違うだろう。
本気で愛していた。
だから憎い。
だから否定したい。
そう思ってしまうんだ。


でも、その否定はよくない。
その時の気持ちに嘘をついたらよくない。
それは逃げ、だ。
逃げることと一緒だ。
自分を否定して、なかったことにして
過去から目をそむけて(嫌な表現だw)
前を歩いたって、またいつかつまづいてしまうものだ。


そしたらまた逃げるのか?
逃げて逃げまくる人生なのか?


逃げたって誰も救ってはくれない。
逃げたらとことん落ちていくだけ。
自分に嘘をついて
その場から逃げて、また同じように悲しみを味わうだけだ。


ならばすべきことは単純だろう。
その悲劇を全て受け入れることだ。
悲しかったことも楽しかったことも全て受け入れる。
そうしてまた次の恋愛にいけるんだ。
この悲劇を教訓にして、また次に活かせばよいのだ。
今度は誰も悲しませないように、
そう誓って恋愛をすればよい。


心の中にいる恋人まで否定してはいけない。
心の中にいる恋人は、現実の恋人であり自分自身でもある。
その自分自身を否定してはいけない。
ありのままを受け入れればよいのだ。
今までに感謝をし、また次に踏み出せばよいのだ。